赤毛のアンを読み返して気がついたこと、そのひとつは小説はもちろんアンが主人公なんですが、この物語が読み継がれている理由のひとつは彼女の成長を見守る兄妹や近所のみんなの物語でもあるということだということです。「赤毛のアン」は、児童向けとくくられることが多いように思いますが、実はそうでなくてアンというちょっとかわった女の子の成長にかかわった大人たちの子育てに共感できる大人向けの物語とも言える気がするのです。あくまでも物語としてですが、周囲のいろんな人がある程度でアンと同じ距離をもつためにアンが孤児である設定に必然があったのではないかとも思います。
Wikipedia には、アニメ「赤毛のアン」を製作した高畑監督のことばとして、「原作を読んでもアンの心情を理解できなかった(ため、原作のとおりにやるしかなかった)」とあります。もしかしたら、それはモンゴメリ自身もアンの物語というわけではなくて、それをみまもる周囲の人々の群像劇としてこの物語を書いたからではないかと感じるのです。
そもそもアンの突拍子もない空想や失敗は、物語の展開の重要なファクターですが、「赤毛のアン」の中では、その考えにいたるアンの心情は必ずしも重要ではないし、むしろ、そこで周囲がどう対応して、どう考えたか?という部分の描写が多いように思うのです。
たとえば朝日新聞のコラムにも最近、そんな感想を書いているのをみかけました。(朝日新聞はリンク禁止という噂をきいたのでURLは半端です)
www.asahi.com/showbiz/column/animagedon/TKY201007180169.html
もちろん、読んでいるのは村岡花子版の日本語訳で完全翻訳ではないし、原文の作者の意図は英文を読んでいないので違うかもしれません。
さて、やや無理やりですが、そんな女性?の成長を見守るといえば・・・
2008年ごろのSONYのハンディカムの広告ページである、こちらを思い出します。
最近、こうした女性の一生を凝縮したこのCM(最近友人に教えてもらいました)
も、印象的ですよね?
またもや
ではない・・・
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